「ニコラ・テスラ 世界中の労働をラクにした人」

テスラ製品の効果に感激され、
ニコラ・テスラについて、もっと知りたいとおっしゃる方が、増えました。

1956年 ニコラ・テスラ生誕100年に、書かれた
挿し絵つきの記事がありましたので、拙訳して、ご紹介します。Mr.Tesla, the Man Who Made Work Easier
この男の目は、自分が生きている間に、彼が生まれた、馬車の時代から、
今日の、電気や、無線の時代になることを、見据えていました。
人々は、この進化に驚愕しましたが、彼は驚きませんでした。
彼が計画し、彼が、技術開発したものだからです。 


彼は、帆船が航海する時代に生まれました。
40歳前に、交流モーターを発明し、電力の遠距離送電を、成功させました。
この二つの発明だけでも、どれだけ多くの労働を、ラクにしたことでしょう!

彼は、現在の無線やTV、ネットワークなどの基礎も、発明しました。
上の写真は、テスラ40歳頃の写真。 右は、80歳頃の写真です。

テスラの風貌の変化以上に、世の中を、変化させたのです。
彼は、今日を発明したと言っても、過言ではありません。

1856年、ニコラ・テスラは、クロアチアのスミリャンで、
7月9日~10日にかけての深夜に、生まれました。
村では名の知られた父と、読み書きのできない母の元に。

しかし、母親は、数十もの長い詩を暗唱し、
かく乳器などの日用道具を、改良したりする人でした。
ニコラは、幼少期より、科学的な直観力を、見せていました。 

1857年から1860年
人々は、肉体労働で、生活をしていました。
ニコラは、5歳になる前に、電力の源となる動力と、遊んでいました。

水車は、歴史にあるよう、古いものですが
木の幹で作った水車をセットすると、
彼は水流の力で、それが回るのを、みつめていました。 



1850年代、60年代 、アメリカでは、ミズーリ川から、ソルトレイクまで
人力で、荷車を牽引していました。
馬も同じように酷使され、ポニーエクスプレスは、セントジョセフ、ミズーリ
サンフランシスコまで、10日で、郵便物を運ばせました。

クロアチアでは、ニコラが7歳の時、
水を汲み上げられないでいる消防車を、みつけました。
彼は直感的に、トラブルの原因がわかり、
川に飛び込んで、ホースのよじれを直しました。



1865年、世の中は新たな動力と、取り組んでいました。
非効率的で、汚く、けたたましい蒸気。
4年間で、米国を横断する手動トラックが、できました。

テスラは9歳になり、他の動力と、取り組んでいました。
彼は、小さな風車を作り、ブレードに、4匹のコガネムシを貼り付けました。
虫の羽が、ブレードと、心棒を回しました。
彼は、100匹分の動力マシンを夢見ましたが、うまくいきませんでした。



1866年から80年、蒸気動力が、普及しました。
一つのエンジンが、クロアチアに届きました。
14歳のニコラは、それを見て、今まで見てきた動力に比べ、
初めての、人工的な動力源だと、思いました。

彼はまた、雪の玉が転がり落ちて、雪崩になるのを見て
雪の累積が、素晴らしい、移動動力になることに、気がつきました。

彼は、ナイアガラの滝の写真を見て
「いつか僕は、ここを利用する!」 と、言いました。

1882-83年、トマス・エジソンは、彼の最初の工場を開きました。

「直流電力」で、彼の59人近くの顧客のランプを灯し、
世間は、電気の不思議に、ぼんやりと気づくようになりました。

ヨーロッパでは、25歳のテスラが、
電気が、動力を提供できると、思っていました。
それには、交流モーターが、必要です。
彼はプランを考え出して、模型を製造しました。
それはうまく動きました!



1884年、「これ以上、人々は、重労働の奴隷になるべきではない。」
と、テスラは言いました。
「私のモーターが、人々を重労働から、解放します!」
しかし、彼に財政的支援をする者は、いませんでした。

彼は、アメリカに渡りました。
その時彼は、模型と荷物を、すべて失い
手元には、たった4セント、残っていただけでした。
84年に渡米した518,592人の移民のほとんどが、米国籍を取れました。
彼の心は、自分の夢が実現する可能性を、感じていました。



1885年から1887年、テスラはエジソンと会い、彼の所で働きました。
しかし、ヨーロッパでそうされていた以上に、
エジソンは、交流電力を認めてくれません。
議論は、白熱し
テスラとエジソンは、お互いの考え方を、なじり合いました。
テスラはエジソンの会社を辞め、発明家としての仕事に戻りました。

しかしまもなく彼は貧窮し、あくせく肉体労働せざるを得ませんでした。
日雇い労働者となり、溝掘り労働をしたのです。

1888年、テスラは、突然、大当たりしました!
彼は、交流モーターに関する特許を得て、
考えを説明した講義で、電気学会に、印象づけました。

エジソンと競合していた、G・ウェスティングハウスは、
このモーターの特許権に対して、
溝掘り人夫だったテスラに、100万ドルを支払ったのです。

1889年から1890年、ウェスティングハウスとテスラは、一緒に組み
すぐに交流モーター、および、多くのサイズのダイナモを展開しました。
テスラは、高電圧コイル ”テスラコイル” を構築しました。
不活発な一端と、数千ボルトも噴き出している一端から、
部屋の向こう側に置かれているランプを、点灯させたのです。
それも、ワイアー(電気コード)を使用せずに!

これは、電力を無線送電する、彼の試みの始まりでした。

仕事に集中する1892年 、テスラはロマンスを除外していました。
インディアン戦争、細いタイヤの自転車、馬車通勤の当時、
彼の発見は、ありえない!と思われましたが、
彼は、それでも人類のために、何かをしたことでしょう。

それは、さらにむずかしいことと、思われましたが。
「女神」と言われた女優、サラ・ベルナールは、彼の前にハンカチーフを落としました。 
彼はそれを返しました。 一言も言うことなく。



1893年、P.T.バーナム、バッファロー・ビル、S・ベルナールなどが出、
エジプトの妖艶なダンスなどを見せた、コロンブス大博覧会で、
ウエスティングハウスとテスラは、
交流電力で、博覧会会場の照明を、灯しました。

テスラは、何の電気コードを使うことなく、
ガラス管を点灯させてみせたのです。



1895-96年、ウエスティングハウスとテスラは、
最大のショーを行いました。
彼らは、ナイアガラの滝に、発電所を建設したのです。

ゼネラル・エレクトリックは、テスラの方法で、
22マイル離れたバッファローまで、送電線を建設しました。
これは、非常に大きな進歩でした。

エジソンは、およそ1マイルほどの電力供給しか、できませんでした。
電力が、一つの所から、遠くの場所へ、届くのです。
広範囲に、送電できる時代が、幕を開けたのです。



1898年、
米国のG・デューイ提督が、マニラ湾で、スペインを打ち負かしました。
テスラは、マディソン・スクエア・ガーデンで、
水タンクに、無線を搭載したボートを、浮かべました。

離れた所から、彼は、リモコンで、船を点灯させ、操作したのです。
彼によると、その後の戦争で、遠隔操作によって操作される
軍事ロボットの第一号になったと、言います。



1899-1900年、テスラは、地球は帯電していると、わかっていました。
コロラド・スプリングスで、彼は、どこでも電気を使えるよう、地球の電気をチャージする、プラントを建てました。
彼は電力を中に注ぎ込み、そして、それを引き戻すと主張しました。
電力を励起するというのです。

残念なことに、彼は実験の詳細を、後の参考のために、
書きとめることは、ありませんでした。

1901年から1916年、無線はただ一点鎖線のメッセージで構成されていた頃
テスラは、ニューヨークのロングアイランドで、
今日のようなブロードキャスティングのプログラム・パワーと、
すべての種類を無線送信する、無線塔の構築に、着手しました。

テスラは、送信にまで、至ることはできませんでした。
しかし彼は、無線送信の多くの基礎を、築きました。
それから彼は、破産しました。



1920年代-30代、
年をとって、テスラは、自分自身にこもるようになりました。
この人には、すべての交流モーター
(彼の死亡時には、1億6200万馬力になっていた)や
あらゆる送信塔と送電線に対して、責任がありました。

彼の部屋のブラインドは、いつも閉じられたままでした。
嵐の時だけ、彼は窓を開けて、ソファに横になり、
稲妻が空を横切るのを、ながめていたのです。



1930年代~40年代、
ニューヨーク公立図書館の階段で、テスラをみかけたのが、最後です。
彼は、愛を見つけました。
毎日、鳩に餌をやっていたのです。

世界中の数100万の労働を、こんなにもラクなものにした男は、
それを知らない数千人が見かけた、ただ鳩に餌をやっている老人でした。

1943年1月7日に、ニコラ・テスラは、86歳で、
ニューヨーク・ホテルの部屋の中で、一人死んでいるのを、発見されました。



こちらも、ご参照ください。フリーエネルギー by ニコラ・テスラ

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